105 「何もわからないけど、ふたつだけわかっていること」

「アメージング・グレース 光と希望を! 絶望から救われた奴隷商人の物語」(中澤幸夫、2013年、女子パウロ会)

 「アメージング・グレース」として知られる讃美歌の作詞者、ニュートンの生涯。

 前半は、少年時代から、軍艦、奴隷貿易船で過ごす青年時代までの出来事、挫折、心身の苦悩、誘惑などが、かなり詳細に語られています。

 後半は、牧師になり、有名なものも含む讃美歌の作詞をし、奴隷制廃止を切望する日々と、周囲の人々との交わり。

 小学生の時は親の財布からよく金を盗み、中学生になれば万引きで補導され、多くの男性と同じように(だと思いますが)欲望ゆえの悶々とした日々を送り、人生の後半は牧師として(と言っても、いまだに、金や権力、人間関係の誘惑から自由ではありません・・・)生きてきたぼくの人生と、ある意味、重なると言えないこともありません。

 もっとも、ぼくが牧師になったのは、悪人であることから改心して、善人になったということではありません。ニュートンについて語られる時は、どうも、「悪人あらため善人」のニュアンスが少しあるところが、気になっています。

 それから、この本が、ニュートンが神に導かれて人生を過ごしたとするのは良いのですが、たとえば、彼が税関職員の職を得る際に、直前まで元気だった前任者が急死して、ニュートンにお鉢が回ってきたことについて、「こんないい仕事でも、神さまのお力があったのか、ふつうでは考えられないような成り行きで決まったのです」と語られていることには違和感を感じました。ニュートンに力添えするために、神が前任者を殺した、と読めてしまうのではないでしょうか。

 もうひとつ、ニュートンの友人で、詩人のウィリアム・クーパーが、アメージング・グレースの詞を聞いたその日からうつ病の症状が強くなったことについて、「クーパーを救いたいというニュートンの思いが秘められていた『アメージング・グレース』。その思いはクーパーの心に届かなかったのでしょうか。それとも、クーパーの病気はニュートンの思いが届かないほど重くなっていたのでしょうか」と述べられていますが、ここには、神の救いがもたらされることと、病気の症状との関係についての、ある誤解があるように思いました。病気は、神さまの救いがその人に届いていないことなどではなく、ましてや、信仰が薄いとか(厚いとか)いうことなどとは、まったく別の話なのです。

 ぼくのこうした違和感にもかかわらず、これは、ニュートンの生涯と信仰について、非常にわかりやすく、ぼくたちの人生や信仰についても、とても示唆に富んだ一冊です。伊藤輝巳さんのかわいらしくみずみずしい絵も、この本を味わい深いものしてくれています。

 死の数週間前にニュートンは友人に「わたしの記憶はほとんど消え去ってしまったが、二つだけ覚えていることがある。わたしはひどい罪人だということと、キリストは偉大なる救い主だということです」と言い残したそうです。

 ああ、良かった。ぼくもいろいろなことを経験する端から忘れていき、思い出せないことがたくさんあるのですが、ぼくが、神のことも隣人のことも横においてしまい、とにかく自分のことしか考えないどうしようもないエゴイストであること、そして、自分では救いようのないぼくを神は無償で救ってくださり、生かし、支え、導き、とわにともにいてくださること、このことだけは忘れないからです。

 この二つしかない。ニュートンにもぼくにも。

 それが確認でき、この本を読んで、良かったです。

 Amazonにはまだ出ていないようですが、女子パウロ会のサイトから入手できます。

 http://shop-pauline.jp/?pid=58776028