「黒い海の記憶 いま、死者の語りを聞くこと」(山形孝夫著、岩波書店、2013年)
この本では、死者以外にも、病者、女性、ユダヤ人、イスラムの人々、などについて語られています。
息子・光さんの「僕はもうダメだ。二〇年も生きちゃ困る」という言葉に何とも言えない気持ちになっていた大江健三郎さんが、宗教学者エリアーデの病床日記の、「この世に生きてそして苦しんでいたということは、誰も否定できない」という一節に、「あっこれだった」とひらめいた、ということを山形さんは紹介しています。
死者も生きていたという事実は否定できない。しかし、その存在は簡単に取り消されてしまいがちです。イエスの時代の病人、女性、そして、この二千年のユダヤ人、あるいは、二十世紀後半から今日までのイスラムの人々も、また、今ここにいるということを簡単に抹消されてしまいます。
イスラムの葬送儀礼を無視してウサマ・ビンラーディンの遺体を海中に遺棄したアメリカを西欧社会は問題視しませんでした。けれども、山形さんは「死者にも人権がある。生きている人間と同様に」と言います。
死者の人権は人格と同意語でありましょう。生者は死者に、死者は生者に寄り添う、と山形さんは言います。被災地ではあたりまえの風景だと。
生者は悲しみ、泣くことで、死者と語り合います。それを通して、悲しみはゆっくりと発酵し、和解と赦しの芽を膨らませていきます。未来への旅はこのようにして始まるのです。
イエスが病人を癒すときの根底にも、悲しみがある、と山形さんは言います。悲しみから逃げずに、悲しみを深める、そこにイエスの治癒の秘密があると。
あるいはまた、男の弟子たちよりもマリアの方がイエスの後継者に値することを描くマリア福音書の著者は、ローマ帝国に迎合することで権力の支配原理にキリスト教が飲み込まれてしまうことに抵抗しているように思われる、と山形さんは論じています。
さらには、現在に至るパレスチナの状況は、キリスト教社会が、反ユダヤ主義の歴史の償いを、パレスチナ人におしつけている、そうすることで、自分たちがともに排斥し、存在を否定するユダヤ人とイスラムの人々を同士討ちさせている、という見解も示されています。
死者の語りを聞く、死者と語り合う、という姿は、ともすれば、いないことにされてしまう人格や、かき消されてしまいそうな微風のようなかすかな声に対する、山形さんの繊細な感性を示していると思いました。
山形さんは洞窟のエリヤを継ぐ方なのでしょうか。