76 「言葉となって顕われ出で」

内村鑑三をよむ」(若松英輔岩波ブックレット、2012年)

たとえば「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(イザヤ43:19)という、文学的には非常に希望に満ちた、この聖書の言葉を読んでも、なお、心が晴れないような絶望におかれている時があります。

 けれども、ここには御言葉(神の言葉、聖書の言葉)による救いがあります。わたしの心がいくら重くても、わたしの脇にこの言葉がある、そのことが救いなのです。わたしの心が軽くなることが救いなのではなく、わたしの心が重いままでありつづけても、この言葉には希望がある、たとえ、その希望がわたしの心に伝染しなくても、言葉の持つ希望は、わたしの心理に関係なく、たしかにそこにある、それが、わたしにとっての、御言葉の救いです。

 この小冊子で、著者は内村の言葉を解説して、聖書の文字を読むだけだとキリストを感じることができない、聖書は「読む者をキリストへ導く窓である」と述べています。

 しかし、わたしは、聖書の言葉は、キリストを示す道具や表象ではなく、いわば、キリストそのものではないかと思います。著者は「来世」と「実在」は日常世界の彼方を指す内村のキータームであると言いますが、わたしは、たとえば、上に挙げたイザヤ書の言葉のような世界は、じつは、人間の心が感じ取れるようなものではない世界、すなわち「実在」ではなかろうか、つまり、実在は言葉によって示されるのではなく、このような宗教的言葉そのものが実在であり来世ではなかろうかと思うのです。著者も「人間を超える何者かが、人心に宿り、人に苦悶を強いつつも、言葉となって顕われ出でようとする」(p.20)と言っています。つまり、言葉は人間を超える何者かを示しているのではなく、何者そのものなのです。

 あるいは、著者は、預言者は自分を語らず、「超越者が語る「声」の通路となろうとする」(p.21)と言いますが、わたしは、この声=言葉=聖書が超越者、実在そのものではないかと思うのです。あるいは、著者は、「回心」とは神の遍在の発見である、苦しみの中にも恩寵があることを見出さなくてはならない、と言いますが、わたしは、聖書の言葉こそが「神の遍在」であり、「恩寵」だと考えます。

 「永遠の世界があるなら、先立つことはもっとも深き愛の営みとなる」(p.35)。イエスの死とは、神がわたしたちに先立った、そこに最深の愛がある、ということでしょうか。わたしに先立ってくださった神の言葉、実在として、聖書がここにあると考えます。(わたしは、聖書の言葉の一言一句が正しい、事実である、という立場には立っていません。)

 深い宗教的思索に満ちたこのブックレットは、誕生日に友人からいただきました。