64 「われわれには独自なものはなく、すべては授けられたもの」

「フョードロフ伝」(スヴェトラーナ・セミョーノヴァ著、安岡治子亀山郁夫訳、水声社、1998年)

 ドストエフスキーの解説本などを読んでいると、ロシアの民衆宗教や思想の風土が気になり始めました。この本がその欲求をぴったり満たしてくれたわけではありませんが、「カラマーゾフの兄弟」でアリョーシャが大地に身を投げ出す場面には、フョードロフの思想が反映されていることなどが述べられており、当たりでもないがはずれでもない、といったところです。

 さて、フョードロフという人は奇想天外なことを言います。人間には先祖を復活させる義務があり、人間は人間を復活させ、自然を統御する技術を開発しなくてはならないと。

 科学や社会が進歩し人間の生活が発展すると信じられた時代には生きていないわたしたちには、そういう時代の無邪気なたわごとにも聞こえますが、じつは、そこには、耳を傾けるべき思想があります。

 フョードロフは「われわれには独自なものはなく、すべては授けられたものである」(p.283)と言います。先祖を復活させることの前提には、フョードロフが「人類全体の精神的財産が万人共通のものであるという特別の感覚をいだき、個々の著者の創作は、時代、環境、先駆者たち、そして、最後には、かつてこの地上に生きたすべての人々にどれほどのものを負っているか、ということを理解していた」(p.123)ことがあります。

 人間を復活させる技術(これはキリスト教の終末的復活とは区別されるようです)の目的は、「他の生きものを押し退けたり殺したり食べたりする必然性を取り除く」(p.230)という倫理的なものであり、「復活による肉体の変容の後、肉体が、感覚器官や腐敗など、物質としてのさまざまな制約を免れた後はじめて、自由意志による自覚的かつ全面的な悪の拒否が可能となる」(同)と言います。

 自然の統御についても、それは「自然の世界を不死の神的存在タイプ(天の王国)に変容させる」(p.239)ことであり、そこでは、「三位一体の例に倣って、人類の多一性、全一性を築くことが求められている」(p.243)と言います。

 自然現象の脅威、科学技術の限界、政治、思想、倫理など人文社会科学、人間の精神の未熟さを見せつけられているわたしたちですが、人類全体の精神財産、「すべては授けられたものである」というフョードロフの思想にはまだ学ぶところがありそうです。