62 「人間は神と対峙できるほどに偉大なのである」

「ロシア宗教思想史」(御子柴道夫、成文社、2012年3月)

 ドストエフキーやトルストイを読んで、ロシアのキリスト教に大地的感覚を与えるような、キリスト教以前の宗教思想があるような気がなんとなくしていて、この本はそういう話か、あるいは、個人的、都市的でない郷土的なキリスト教思想の話かと期待していましたが、それは無知のなせる空(しい)想(い)でした。

 この本は、ロシアキリスト教史上、重要な神学者の思想にも当然触れていますが、それは引用によるところが多く、また、思想内容というよりは、教会や国家との関係の中でのその人物の動向にも多くの紙数が裂かれており、耕された通史というよりは、専門家による論文集です。

 本書は、三位一体、見神、修道、ヨーロッパとの関係、信仰と理性、教会と国家、というような代表的なテーマを取り上げていますが、その中でも、印象に残るのは、やはり、神化についての記述です。

 西洋神学的な発想からは、人間が神になるなどとはけしからん、ということになりがちですが、周知のように、二世紀の教父たちは救済を神化とみなしていたようです。そして、それは、ロシア・キリスト教史に引き継がれたと言えるでしょう。

 しかし、神化は、人間が神の座につく、神になって世界に君臨したり、万能になったりするということではなく、それは、神と人間との合一のことなのです。「神の側からの肉化と人間の側からの神化は、接合した働きである。神は、人間へのその愛によって、人間となり人化する。そして人間も、神へのその愛をとおして、恩寵により神となり神化する」(
p.28)。

 見神もまた同じことだと言います。「(神的)光を見ることは光に与ることである。神の側から言うと、神は自らのうちに完全にとどまりつつも、わたしたちの内部に遍く住んで、ご自分の本性ではないが、その栄光と輝きを私たちに分与する。そしてそのことで私たちを「神化」する。「見神」=「神化」なのである」(p.34)。

 そして、これは、人間やこの世界の肯定、尊重につながります。「人間は神と対峙できるほどに偉大なのである、より正確には偉大でなければならないのだ」(p.284)。「偉大」という言葉にひっかかるなら「尊厳あるもの」と言い換えてもよいと思います。

 ところで、ロシアには、光ではなく、土を扱う神学はないのでしょうか。あれば、ぜひ読みたいものです。