47 「公正無私で、いつもなにか静かに考えている」

 「一分の一 (上)(下)」 井上ひさし

 一昨年に帰天した著者の未完の長編小説。どうして、未完なのでしょうか。

 敗戦後、日本は四分割され、北ニッポンはソ連に、中央ニッポンは米国に、沖縄を含む西日本は英国に、四国ニッポンは中華人民共和国に占領されており、さらには、近々、日本の各地が占領国の海外県などに組み入れられてしまうという舞台設定。

 北ニッポンの平凡な(と言っても地理に関しては抜群の記憶力を発揮する)地理学者サブーシャこと遠藤三郎が、四分の一ならぬ一分の一のニッポンを目指すお話し。

 とはいっても、それは、国家による領土や住民の統一のことではありません。サブーシャの理想は「人びとが明るく溌剌とするような国」「森と原っぱと水田。護岸工事のされていない川。その緑と水の中に点在する最新鋭の工場」「完備された法がある。その法は同時に寛大である。人びとはその法を尊びながら、自由に生きている」「働き終えた老人たちは尊敬されながらのんびりと余生をたのしむ」「子どもたちは大人たちに愛されながらも、きびしく公的精神と法に従う心を仕込まれる」「人びとは万事につけて控え目」「オリンピックでメダルはとれない」「ノーベル賞もとれない」「だが、世界がなにかの危機に追い込まれると、全世界の注目が一斉に新ニッポンに集まる」「東洋の、あの島国の人びとは公正無私であるし、いつもなにかを静かに考えている」そういうニッポンなのです。吉里吉里国の姿につながります。

 ところが、日本を占領する国々からなる「対日理事会」は、分割統治に反対する者は、逮捕し、拷問し、秘密裁判で死刑にするという、ファシズム国家並みの方針を持っています。また、人びとも、現状に満足している人だけでなく、不満な人も抵抗の声をなかなか出すことができません。

 しかし、サブーシャがいつも危機に追い込まれながらも、火事場のクソ力で、「一分の一」を訴えるごとに、ひそかに支援者が増えていき、さらなる逆境をくぐり抜けることができるのです。強力なリーダーというよりは、弱くて愚鈍なリーダーを民衆が支えていく、民衆がリーダーを育てていくというプロセスではないでしょうか。

 井上先生お得意の、奇想天外なドタバタ劇あり、劇中劇あり、大腸カメラ検査後の腸内事故経験や作家としての膨大な資料集めなど私小説的部分あり、一人の人間がいくつものキャラクターを発揮する手法ありの娯楽小説ですが、日本人と権力、転向問題などが鋭く問われる大作です。

 問題点は、井上先生、やはり、マチストというか、男の暴力性への自覚が足りないのか、ぎゃくに、ぼくの軽いそれなどを突き抜けているのか・・・

 この小説は昭和の終わりから平成の二年まで雑誌に連載され、休載になったのですが、そのまま、18年間、再開されなかったのはどうしてでしょうか。

 一分の一の課題は、読者も参加して達成されるという意味で、オープンエンドなのかなと思ったりもしています。

 この作品では、じつは、国家としての統一というよりも、個々人が他を想い連帯する共同体が願われているのではないでしょうか。サブーシャやひさしさんに賢治や「サウイフモノ」の面影を感じています。