42  「罪人呼ばわりされる者、ではなく、悪人と」

「イエス その歴史的実像に迫る」(E. P. サンダース)

 イエスは罪人たちと親しく交わったと福音書にありますが、ぼくはこの「罪人」を「悪いことをした人、というよりも、貧しさなどのゆえに安息日規定などを守れず、世の中から罪人呼ばわりされている人びと」、つまり、世の中から苦しめられている人びとのことと理解してきましたし、そう語ってきました。

 ところが、この本によると、イエスのつきあった罪人とは、「神を知っていたにもかかわらず神に従わないことに決めた」(p.326)人びと、「私腹を肥やすために自分の職権を利用する人」、「他の人を食い物にし、あたかも神が存在しないかのように、あるいはあたかも神が賞罰を行わないかのように生活する」(p.327)人びとのことだそうです。

 そうすると、イエスは社会から疎外された貧しく弱い人々と飯を食ったというよりは、今の時代で言えば、不法なやり方で人を免職処分にし自分たちの立場を守ったり優位にしようとしたりする宗教権力者とか、利益のためなら労働者や顧客や地域住民の健康を損なったり死に追いやったりする企業経営者とか、人を殴ったり蹴ったり殺したりすることなど構わないという構えを見せて市民を恐喝する暴力団とか、そういう連中相手だったということになるでしょうか。

 だいぶ違うかも知れません。徴税人集団は東京電力ほどの組織をなしてはいなかったことでしょう。けれども、とにかく、イエスが一緒に飯を食っていたのは、人を人も思わぬような悪事を働いている人びとだったとすれば、そして、何らかの意味でそれにぼくたちが学ぶとすれば、これまでとは違う種類の覚悟が求められることでしょう。お前は本当に悪い奴らとつきあえるのか、と問われることになるかもしれないのです。人を傷つけ、おまえを傷つけ、ルールなど関係ない奴らと仲間になれるでしょうか。
 
 この点がこの本からのもっとも大きなぼくへの問いかけですが、以下のように、非常に気持ちよく読めるところ、これまでにも慣れ親しんできた考えが述べられていると部分も十分にあります。

エスの教えについては、「イエスは人々がどのように他人を扱うかという点に関心を抱いていたのであり、どのような考えが人々の心に潜んでいるかという点に関心を抱いていたのではなかった」(p.290)、「イエスは心の中に怒りを抱かないように戒めたのかも知れないが、彼の道徳的教えの大半は、他の人びとを公正に扱うように」(p.291)ということである、とまとめられています。やはり、イエスは人が人の上に立ったり、下に位置付けたりすることが嫌なんですね。安心しました。

 さらには、「イエスの教えの全体的な主旨は、人間の脆さに対する思いやりである。彼は人々をその些細な過失のために避難しながら歩き回ったのではなかったと思われる。彼は権力者たちの間でではなく社会的地位の低い人々の間で活動したのであり」(同)という箇所には黄色のラインマーカーで線を引きました。さきほど定義されていた「罪人」がこの「社会的地位の低い人々」と同じなのかどうか、あまりはっきりとは書かれていません。それから、「権力者たち」がさきほどの「私腹を肥やすために自分の職権を利用する人」にあてはまらないのかどうかも明確ではありません。おそらく、罪人とは社会や組織の上層部の合法的(を装う)悪党のことではなく、いわゆるアウトローの小悪党のことなのでしょう。

 もうひとつ、イエスは「義を願い求め渇望する人々や慈悲深い人々、心のきよい人々、平和を創り出す人たちだけでなく、虐げられた人々や貧しい人々、柔和な人々をも祝福する」(p292)という見方は、山上&平地の説教の冒頭の解釈として新鮮です。

 「イエスの公生涯の全体的な傾向は、同情的であって批判的でなかった」(同)。同情していただくことについては、良かった、良かったと思いつつ、批判的であることをまたまた反省させられます。

 八月に買って、ちょびちょび読みつづけて、もう11月末かよ。でも、上村静さんと廣石望さんの新刊がぼくの机の上に乗る前に読み終えられたのは良かったです。

 「彼は禁欲的ではなく、喜びに満ちあふれており祝賀的であった」(p.293)。「笑うイエス」という絵と、「踊れ、輪になって」という讃美歌を思い出しました。