35 「〈思う、考える〉より〈思い出す〉」

「書くことが思いつかない人のための文章教室」(近藤勝重

 この手のハウツーものに手を出すことに恥ずかしさを覚えないわけでもありませんが、毎週七千字のお話しを書かねばならず、その材料がとうに枯渇してしまった者にとっては、強くそそられるタイトルです。値段の高そうな枠の新聞広告や、本屋でのヒラヅミを見ると、異業種にも似たような苦悶を抱えた方が多いのでしょう。

 でも、良いことが書いてありました。ひとつは、文章を書く時は、〈思う、考える〉のではなく〈思い出す〉ということ、もうひとつは、何かを経験する時は、あとで誰かに報告するつもりでよく観察すること。

 ぼくが思うに(「思って」しまった・・・・)、〈思う、考える〉ではどうも自分の枠から出られない、自分の頭蓋骨の中でうんうん唸っているだけ。ところが、〈思い出す〉とは、その外に出て行くことではないかと。

 近藤さんも書いています。「文章というのは結局のところ人と人、人と物、人と自然といったそれぞれの関係をどう描くか、それが最大のポイントなんですね」(p.40)。自分と人、自分と物、自分と自然、と言ってもいいでしょう。

〈思う、考える〉だと〈自分〉にとどまり、そこには何もない。けれども、〈思い出す〉ことは〈自分〉の外で人や物や自然との〈関係〉に入って行くこと。〈報告する〉も同じで、〈思い出す〉準備をすることでしょう。

 「第一はシチュエーション、つまりそのときの状況や場面の提示です」「作文やエッセイなどは『論よりエピソード』です」(p.96)。神学的な説明より例話、パウロ書簡より福音書。。なんてことはないか。パウロさんのお手紙も十分具体的な場面を背景にしていますね。

 ということで、さもしいわたしは、ただちにこれを七千字を埋めるのに使ったのでした。以下は昨日の七千字の一部です。

《最近、文章を書く時は、考えたり、思ったりするよりは、思い出すことがよい、ということを本で読みました。また、何かを経験する時は、あとで「報告する」つもりで経験すると良い、ということも記されていました。

 「考えたり、思ったり」するのではなく「思い出す」とはどういうことでしょうか。何かをただ経験するのではなく「あとで報告するつもりで経験する」とはどういうことでしょうか。これもまた、自分の内側にとどまるのではなく、自分の外を見遣る、ということだと思うのです。

 わたしたちは、思ったり、考えたりすると、自分のことを思ったり、自分のことを考えたりします。自分の心の中に思い浮かぶ感情や感覚にとらわれてしまいます。ところが、思い出すとなれば、誰かほかの人がどうだった、あの人がどんな顔をしていた、あの人がどんなことを言っていたというように、他の人のこと、自分の外の世界のことが入ってくるのではないでしょうか。

 同じように、何かを経験している時、たとえば、誰かの話を聞いている時、ただ聞いていますと、聞いているうちに、自分の中に自分の思いが浮かんできて、そのうちに、その相手の声よりも、自分の頭に浮かんできたことに気持ちを奪われてしまいますが、今、目の前で話している人のことを、この人が話していることをあとで誰かに報告しよう、あとで、思い出して、誰かに伝えよう、そういう思いで聞くと、その人の声に集中でき、わたしたちは、自分の内なる世界にひきもどされずに、自分の外へと伸びて行くことができるのではないでしょうか》。

 《今日は、隣人とのかかわりで人生をゆたかにされるということをお話ししてきましたが、これは、神さまとのかかわりにおいても同じことだと思います。

 神様のことを、考えたり、思ったりするよりも、神さまのことを思い出す、神さまがこれまでの人生において、わたしをどのように守り、支え、導いてくださったか、思い出すと、わたしたちの人生はゆたかになると思います。

 いや、神さまはわたしの人生に良いことなどしてくれなかったと思われる方もおられるかもしれませんが、良いことをしてもらったことというよりも、人生で起こった悪いことの中で神様がいかにわたしを支えてくださったか、守ってくださったか、導いてくださったか、あらために考え直してみる、あらために思い起こしてみるとよいと思います。

 もうひとつは、たとえば、聖書を読む時に、わかろうとか、知識をたくわえようとか、全部まじめに頭に入れようとかするのでなく、先ほど、「あとで報告するつもりで経験する」と申し上げましたが、同じように、聖書を読んで、あとで誰かに報告する、しかも、その報告によって、その人を励ましたり、慰めたり、支えたりするつもりで、聖書を読むと良いと思います。あるいは、あとで、自分で自分に報告するつもりで、神さまの言葉である聖書やイエスさまの出来事を読むと良いと思います。

 詳細や矛盾にあまりこだわらずに、たとえば、今日のところでは、わたしは、王様となって帰って来た主人が、彼が王になることを望まなかった者どもを打ち殺せと言ったところには触れないで、一ムナのたとえにポイントを絞りましたが、そういうふうに、大きな流れの中で、神さまはここでわたしたちをどのように励まし、導こうとしておられるのか、それを、あとで誰かに報告するつもりで読むと、神さまのみ言葉と、いや、神さまご自身と、豊かな交わりがあたえられ、わたしたちの人生は成長していくのだと思います》。