7 「メンタルとソーシャル」

うつ病を体験した精神科医の処方せん」(蟻塚亮二
「いじめの直し方」(内藤朝雄荻上チキ)

 人がうつ病になるのは、その人の個人的な性格だけによるのではなく、その人をとりまく環境も大きく影響する、と蟻塚さんは言います。どんな性格の人でも、長い時間きびしい労働をしなければならない環境に置かれ続ければ、うつ病になりうるのです。

 蟻塚さんによれば、今の日本の社会は「努力しても報われない」社会です。たしかに、いくら努力しても正規採用されない若者が大勢います。女性たちはずっと前からそうだったでしょう。正規雇用者の中でも学歴差別があるのでしょう。どさくさにまぎれて申し上げれば、わたしのまわりも、どうも人づきあいや立ち回りがうまいのか、まわりや自分から評価を得やすいところにちゃっかりおさまっているヤツもいます。

 さらに余談ですが、自己評価が低い人は、社会一般の評価軸にそって自分を低く評価していると考えられます。ところが社会一般の評価軸はバリエーションが少なく、特定の結果を出し特定の能力をもっている人を評価するようなものに限られているのです。

 たとえば、知性ということで言えば、たくさん本を読み、理解し、記憶にとどめ、それを適用したり、応用したり、批判したり、乗り越えたりし、それを言語にできる人が知性が高いという評価軸が社会一般にあり、わたしなどはそれで自分をはかってつねに劣等感にさいなまれるのですが、たくさん読めないこと、理解できないこと、記憶に残らないこと、誤読することをも肯定的に評価する角度があり、それが方便やおざなりの慰めではなく、ひとつの価値として成立すれば、わたしの自己評価も高まるかなと淡い期待を抱いております。

 話を戻しまして、蟻塚さんは、うつ病や自殺者、「ニート」と呼ばれる若者の増加の背景には、「努力しても報われない」社会の流れがある、と述べています。「今わが国を襲っている自殺率の高さは、社会が急激に「生きにくい」ものに変動し、混乱しているからだと思う」(p.176)。「「努力して正当に報われる社会」であってほしい。自殺もなくなり、うつ病も治る社会であってほしい」(p.177)。

 ある人の抱えている苦しみの原因も解決も、その人個人「だけ」でなく社会「にも」ある、と蟻塚さんは言っておられるように読みましたが、「いじめ」の場合は、原因も解決も、じつは、個人「ではなく」社会「にある」、個人を「治す」のではなく、枠組みを「直す」ことにある、と「いじめの直し方」の著者は言っているように思います。

 いじめられている者が「ごめんなさい。ぼくもいけないところがありました。これからは皆と仲良くします」と言って、自分を「治そう」とする必要などないのです。問題なのは、仲良くできない人も存在する集団内で仲良くすることが強要され、また、メンバーの入れ替わりもほとんどなく、ただ内部圧力が高まっていく中で、その圧力を集中する先として、あるいは、ストレスのはけ口とて、誰かがえじきになりいじめられる、こういう枠組みの方なのです。こちらこそが「直」さなければならない、著者たちはこう言っているように読みました。

 もちろん、いじめられている者もただ受け身で待つのではなく、できることもあります。ただ、それは、自分の性格を治す、というようなことではなく、いじめの起こる仕組みを理解して、それに対処することです。たとえば、第三者(弁護士、警察、そのためにはまず親)に介入してもらう、受けたいじめの記録をつける、その集団内の奇妙なルールを崩すために「より大きな秩序である、社会のルールを持ち込む」、つまり「外部の人間の目にさらす」ことなどが挙げられています。

 小学校のクラスは、仲良くすることが強要され、内部圧力が上昇し、いじめが起こる場の典型です。「そうした秩序を形成されにくくするためには、クラスそのものをとりあえずなくす。クラスなんかなくしたって、実はそれほど困らないんだよね。朝と帰りのホームルームだけを用意してしまえば、席は別に固定しないでいい。好きな席で、好きな人とだけ友だちになればいいんだ」(p.87)。

 メンタルな問題はソーシャルな問題に密接につながっています。自分の苦しみの原因を自分のメンタルのあり方にだけ求めるのでなく、自分を囲む枠組みの問題も大きいことを知って、少しでも楽になりたい、楽になってほしいと思います。

 けれども、その人の性格によるのでもなければ、社会の枠組みだけによるのでもなく、枠組みが良くなっても依然として執拗に続くようなメンタル地獄がある、すくなくとも、そのような思いで苦しんでいる人がいることも忘れてはならないと思います。どうして、こんなに苦しいのだろう、この問いは生き続けています。ソーシャルな原因を考えはじめたこと、これは画期的な出来事ですが、これをファイナルアンサーにしてしまうことで、問いを封じてしまってはならないでしょう。