(17) 「遠くにいても、胸に抱けば、潤してくれる」

その人と一緒にいたい、と願っています。声が聞きたい。話がしたい。うれしくなるから。胸が弾むから。気持ちがやさしくなるから、と。

しかし、いつも一緒にいられるわけではありません。けれども、一緒にいないようだけれども、一緒にいることもあるのです。声が聞こえないようで、聞こえることも。話ができないようで、話をしていることも。

たとえば、心の中で思い浮かべたり、手紙を出したり、もらったり。

Facebookなどもそうかも知れません。ネットの弊害や限界も言われますが、使い方によっては、良い点や可能性もあるのではないでしょうか。まだ会ったことのない人と知り合ったり、以前からの遠方の友とデスクトップやスマホのスクリーンで、ときには、さりげなく、ときには、しみこむように言葉や風景を交わしたりして、瞳を潤し、心を満たします。

カンカン照り、喉はカラカラ。猛暑の道をとぼとぼと歩いています。家に辿り着いたら、一杯の冷たい麦茶か麦酒を飲んでやろうと思いながら。これで、もう、涼しくなってしまう人、喉がキーンと冷える人もいるかもしれません。

いや、そんなことを思っても、あいかわらず死ぬほど暑いし、熱波と熱射の敵意にさらされ続ける人の方がずっと多いでしょう。けれども、もうじき麦茶か麦酒を飲めることを励みと望みにし、なんとか歩き続けることはできるのではないでしょうか。

いや、もう歩くのを止めて、タクシーを拾い、さっさと家の中に避難し、冷たいものを喉に流し込む人もいるかも知れません。

人それぞれですが、それでも、一杯のグラスやおかわりに喉の渇きを潤されて、何とか生きています。それがそこにあろうと、遠くにあるように見えようと。

聖書によると、イエスは弟子たちに別れを告げます。自分は神のもとに帰って行くと。弟子たちはイエスを見つけることも、神のところに来ることもできないと。

そう言いつつも、こう付け加えます。「渇いている人はだれでも、わたしのところへ来て飲みなさい。わたしを信じる人の中には、生きた水が流れる」と。

エスを胸に抱けば、遠くにいるように思えても、イエスの存在が、その人の心を、それぞれの仕方で潤してくれるということでしょうか。