(75)「死後の世界は言葉では言い表せないけれども、ただひとつだけたしかなことがあります」

 もし死後の世界があるなら、そこはどのようなところでしょうか。今わたしたちがいる世界と同じように、時間があり、空間があるのでしょうか。今と同じように言葉や意識をひとりひとりが持っているのでしょうか。

 先に旅立ったおばあちゃんは92歳の姿のままそこにいるのでしょうか。それとも17歳のときのようになっているのでしょうか。あるいは、赤ちゃんのようになっているのでしょうか。

 「おばあちゃんはきっと天から見守っていてくれるよ」という言葉は何らかの意味で真実だと思いますが、それは92歳か17歳か新生児の人間としてでしょうか。それとも、お星さまになっているのでしょうか。

 わたしたちにはわからないのです。わからないから、あたり一面金色に輝いたり、花が咲き乱れ小鳥がさえずったり、妙なる調べが聞こえたりするような死後の世界を思い描くしかないのです。わからないから、たましいだけになるとか、透明になるとか、人間の目には見えない姿になるとか、どこかに生まれ変わるとか、星になるとか、風になるとか、鳥になるとか、想像力を働かせるしかないのです。

 そして、それはけっして不十分なことではありません。見えない世界を、これこれこういう世界だと断定してしまうことの方が問題です。見えない世界を、今生きている世界の考えを使って、これこれこうなんだと言ってしまう方がおかしいのです。トンネルを抜けたら霊界だったという言い方は、想像の範囲では許されるかもしれませんが、客観的な事実として断定するのであれば、怪しいテレビ番組になってしまいます。

 新約聖書によりますと、イエスも、地上の旅を終えた後のわたしたちの姿を断定的には示しませんでした。ただ「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる」と言っただけなのです。

 「めとることも嫁ぐこともなく」とは、わたしたちの今の生活とはまったく違うということでしょう。今のわたしたちと同じ姿、同じ時間・空間・意識感覚があるわけではないのです。わたしたちの想像をまったく越えることであるし、わたしたちの五感を使っても描き出すことはできないことでしょう。

 「天使のようになる」というのはどういうことでしょうか。天使とはどういうものなのかわかりません。ただ、神さまとつながっている存在であることはわかります。

 この世の旅を終えた後、わたしたちはどのような世界でどのような姿になるのかは、わたしたちの言葉では言い表すことはできないけれども、ただひとつたしかなことがある。それは、神さまとつながっているということだ。イエスがこう言いたかったとしても不思議ではありません。