(13) 「春子先生は今も生きて、支えてくださる」

 数年前、故郷の小倉を訪ねました。小中学校の同級生数人とほぼ四十年ぶりに会い、楽しい一時を過ごしました。当時のことを語り合いながら、校区では人権教育が盛んだったことを思いだしました。同和教育の授業を受けたり、朝鮮語クラブがあったりしました。被差別部落が点在し、在日の生徒も少なくなかったのです。

 四年から六年までの担任だった春子先生には、残念ながらお会いできませんでした。今から思えば、問題児だったぼくを見捨てることなく、甘やかすことなく、最後までつきあってくださいました。戦争中に少女時代を送り、敗戦後、師範学校に進んだ先生は、「昭和」で言えば四十年代後半の、ぼくらのたましいに、万人坑など日本が中国でした残虐行為、そして、戦争加害を深く反省していくための日本国憲法戦争放棄主権在民基本的人権遵守を、情熱的に刻み込んでくださいました。

 大阪の親戚のところに身を寄せているという春子先生。友人から教えてもらった電話番号をまわしてみました。ご無沙汰しています。はやしいわおです。あ、いわおさん。四十年経っても、八十才を超えても、春子先生はぼくを覚えていてくださいました。ひさしとまさこと一緒に、一度先生をお訪ねしたいです。まあ、ありがとう。あいたいねえ。なつかしいね。でもねえ、いまちょっと、風邪ひいてるんよ。わかりました。では、もうすこしあたたかくなってから、またお電話しますね。ああ、そうしてもらえるとうれしいねえ。ありがとうね。

 結局、春になっても連絡はせず、その年末、先生の親戚から同級生に「喪中につき」のハガキが届き、ついに、春子先生を訪ねることはできませんでした。

 ここ二年、国会前に行くことが多くなりました。毎週のように足を運んだ時期もあります。それと比べれば頻度はずっと落ちますが、沖縄のキャンプシュワブ前にも数度行きました。安保法や米軍基地に抗議するのは、複雑な論理や難解な思想からではありません。

 春子先生がぼくの体に染み込ませてくれた戦争放棄主権在民基本的人権遵守の念からに他なりません。春子先生はそこに生きておられ、今もぼくを支えてくださいます。国会前、キャンプ前は、6年6組の教室です。

 聖書によりますと、イエスが十字架について死んでしまったあと、弟子たちは湖で漁をしていました。弟子たちは、その湖畔でイエスと出会い、その湖をイエスと舟でわたったものでした。

 夜通し働いても一匹も獲れません。けれども、そこにイエスがあらわれます。弟子たちは、気づきません。しかし、途端に大漁になります。そこで、死んでしまったはずのイエスが戻ってきて、ともに網を打っているのだな、と弟子たちは承知するのです。