33 「放射能汚染食品を食べる責任」

 「放射能汚染の現実を越えて」
 「隠される原子力 核の真実 原子力の専門家が原発に反対するわけ」小出裕章

 小出さんの主張で、ぼくの頭に残っているのは次のようなことです。

1)日本で生活する者は積極的ではないとしても原子力発電の恩恵を受けているのだから、放射能汚染物質を食べるべきである。チェルノブイリの事故によって汚染した食品の輸入を日本が拒否すれば、それらは、原発に支えられた浪費生活と無縁な国や地域の人びとに押し付けられることになる。

2)子どもたちは大人よりも放射能の害を受けやすいので、できるだけの安全を確保しなければならない。

3)放射能汚染がどれだけ危険なことか、また、今どれだけ危険な状態にあるのかを、できるだけ明らかにすべきである。

4)CO2 ゆえに温暖化する地球を守るためには、火力発電とは違ってCO2を出さない原子力発電が必要だというキャンペーンがあるが、温暖化だけが今の地球の特別な問題ではなく、むしろ、これは地球の歴史ではつねに起こってきたことであり、また、その原因がCO2だけにあるとは言えず、さらには、原子力発電の発電時だけをみるとたしかにCO2の排出は低いが、原子力発電所の建設、維持などの周辺事項を含むとCO2排出減少に効果的であるとは言えない。

5)要は、エネルギーを浪費する生活を変えなければならない。エネルギー消費のある程度の増大はたしかに平均寿命の上昇に役立ったが、それ以上の増大は役に立たない。

 小出さんの本を読んで慰められたり、あらためて学ばされたりしたことは、1)のような主張です。小出さんのこの主張は運動つぶしだと非難されたそうです。放射能汚染食品は断固拒否すべきであると。

 ところが、小出さんはそれが拒否されたら、つぎにどういうことが起こるかを良く考えています。そして、これを食べなくてはならない、原発の恩恵にあずからない国・地域の人びとに汚染食品を押し付けてはならない、と言っています。

 ある運動は、たとえ建設的であったり、よりラディカル(根本的、徹底的)であったりしても、何かの批判を受けることには神経質になりがちです。ぼくなども、小出さんとは比べものにならないほど低いレベルのことですが、ちょっと異論をぶつけて(まあ、そのやり方が子どもっぽかったのですが・・・)、運動への侮辱だと言われたり、除名になったり、入会金を返金されたりしたことが何度かあったりします。

 反原発運動には「いのちを守ろう」というところがありますから、汚染食品を食べようなどと言うと、大きな抵抗が予想されますが、小出さんは、ただ「いのちを守ろう」というだけでなく、原発の共犯者としての日本住民の責任、これ以上の加害者にならない責任を見据えているように思いました。

 在日外国人が外国人登録の際に十指の指紋を押さなければならないとか、日雇労働者が雇用者や行政や地域住民からひどいめにあっているとかいうような人権問題から社会問題に関心を持ち始めたぼくは、昔からエコロジー運動というものが今いちピンときませんでした。そこには、自分たちを守ろうということはあっても、踏みにじられている他者を前にして何もせずにはいられない、何も考えずにはいられない、という思いを感じられなかったからです。

 もちろん、自分たちのいのちを守ることは非常に大事ですが、この大事さは他者のいのちを守ることにもあてはめられる大事さとして考えられるべきであって、ゴミ処理場が自分の地域にさえなければよい、よそに移転してもらえれば、それでよい、というようなレベルのことであってはならないのです。

 町内ごとにゴミ処理場を設け、自分たちの出したゴミは自分たちの地域で引き受け、その負担の大きさに嫌気がさし、ゴミを出さない生活を真剣に模索する・・・そういうエコロジーならわかるかも知れません。

 山や川が泣いている、森が泣いているのと同じように、誰かが泣いている、誰かが血を流していることも頭から離れずに仕方がない、そういうエコロジーなら信じられるでしょう。