(90)  「たいしたことがないと思えば、たいしたことは学べません。何かあると思えば、何かが変わります」

 いつも同じことの繰り返しのように思える高齢者の話でも、良く聞いてみると、じつは、毎回違うことを言っているはずだ、とカウンセリングの講習会で習いました。たしかに、同じ話だからつまらないと決め込まないで、あらたな気持ちで聞いてみると、いままで気づかなかったメッセージを受け取ることができるかも知れません。

 子どもたちの話も、子どもの言うことだからとか、たいしたことないだろうとかいった先入観を横に置いて聞こうとするなら、聞くべきことがあるのではないでしょうか。慣れ親しんで来たパートナーについても同様のことが言えると思います。

 どんなにつまらないと思える人の話でも、寛い心で聞いてみれば、これはよいなと思うことがあるのではないでしょうか。ある友人は、本を読んだ後の感想文を五百以上、インターネットに記していますが、けなすことはほとんどなく、どんな本にも良い点、学ぶべき点を見つけようと心掛けているそうです。

 新約聖書によれば、イエスはあちこちの村や町で人びとに話をしたり病人を癒したりして、評判をとっていたようです。ところが、故郷の町では、ほんのわずかの人しか癒すことができませんでした。

 どうしてでしょうか。たいていの人は、イエスのことを、たいした人物、耳を傾けるべき人物とは思いませんでした。なぜなら、子どものときから本人のことも家族のこともよく知っていたからです。いや、良く知っている、たいしたことはない、と思い込んでいたからです。

 病気が癒されるとはどういうことでしょうか。変化が起こることです。けれども、つまらない相手だと思っていたら、その人の言葉や行動によって変えられることはないでしょう。

 ぎゃくに、人びとがつまらないものと見なしたにも拘わらず、イエスの言動に、新鮮な思いで臨んだ、少数の人には、大きな変化が起こったのです。

 知っていると思ってしまえば、学ぶことはできません。知らないと思えば、たくさん学べます。たいしたことないと思えば、たいしたことは学べません。この人の言葉には何かあると敬意を払えば、何かを得ることができるのです。