演出家とは何をする人なのだろうか。脚本には演劇の柱であるセリフや大まかな舞台設定ぐらいしか書いていない。舞台で上演するには、これを、台詞の読み方、表情、全身のふるまい、複数の役者の動きなどで、肉をつけ、皮を貼らなくてはならない。演出についてはまったく無知なわたしが勝手に想像するとこんなことになる。
この本には、タイトル通り、「戦禍に生きた」ある演出家とある劇団員たちの苦難が描かれている。
1929年4月。共産党関係者の一斉検挙。五千人にのぼる逮捕者。
1930年代に入ると、中野重治、沢村貞子ら、演劇人も検挙されていく。
「ほんの八年前、『無辜の民は標的にしない』と国会で堂々と答弁した小川平吉の治安維持法は、あらゆる場面で牙を剥いた」(p.90)。共謀罪が成立した現在、これが繰り返されない保証はない。
逮捕されるだけではない。軍神に祭り上げられた新劇俳優もいる。戦争で殺されて、はじめて、名優とされた。
釈放後も活動を制限されていたが、名優・丸山定夫、園井恵子、そして、若手の森下彰子、高山象三らを擁した苦楽座(のちに「桜隊」)の影の演出家となり、広島入り。
1945年8月、一時的に東京に戻る。8月10日、広島に戻る。森下ら劇団員五人は8月6日に炎にのまれ死亡。生き残った丸山を遠方の避難所でなんとか探し当て、できるだけ寄り添い、看病を続けるが、17日に野辺送り。その足で神戸に行き、親戚宅でベッドに伏せていた園井と高山と再会し、寝ずの看病をするが、ふたりも黒い血を流し、20日、21日と相次いで死亡。
「仲間たちの最期を看取り、その骨を拾うことが、桜隊の演出家としての最後の仕事であったとすれば、その運命は過酷過ぎた」(p.314)。
けれども、八田の仕事は続く。演劇研究所を立ち上げ、活動を続けながら、基地反対運動などのデモには、やがて癌を患うことになる体をひきずり参加し、声を張り上げた。
「平和と言われる時代にあっても、無関心にその時代の行列に並ぶのではなく、自分が正しいと思うことに向かって、意志を示し続けなくてはならない。それは演劇であってもいいし、デモでもいい。とにかく傍観者にならないことが自分たちに課せられた義務なのだと、晩年の八田は若い俳優に繰り返した」(p.347)。
1976年、死亡。心不全とされたが、臓器には癌があったと言う。8月10日に広島に戻り、劇団員の消息や遺骨を求めて歩き回ったのだった。
ときどき先輩が観においでと誘ってくれる劇団がある。そこの演出家のふじたあさやさんは、八田の戦後の劇はほとんど観ているという。かおりを受け継いでいることだろう。